top of page

大屋窯由来書

萩焼の由来

古来から陶業の地であった萩に今日の萩焼が誕生したのは、萩藩毛利輝元公の命により朝鮮の陶工 李勺光、李敬兄弟が毛利家御抱窯として朝鮮の陶技を伝えた慶長年間と伝えられております。茶人や武人達のたゆまなき指導、陶工の努力とが土と器の結びつきをより深め、茶道界不変且つ屈指の萩焼を造り上げたのであります。古くから萩焼の世界では、一焼け、二土、三作りと云われてまいりました。今日においてもどの一つとしてゆるがせには出来ません。萩の土も、水もれの欠点がありますが、その滲透性が雨もり手などの萩の七変化を醸し出す所以でありましょう。作りにおいては轆轤の「みょう」が重点となり器からにじみでる味わいを尊んでおります。焼き具合は「ざっくり」と、又は「かたく」焼かれた物、「窯変」(窯の中でおこった変化)と、それぞれの味わいを知ることが出来ましょう。

大屋窯の由来

大屋窯は当主は濵中月村により昭和四十四年(1969年)萩市南方の日輪山の麓に開窯されました。窯の名の由来である大屋の地は、いにしえに梅林園があったことから歌人たちにも鶯屋・大谷(おおや)と詠まれておりました。窯のそばには山の伏流水である湧き水を源泉とする萩で唯一の東流れの川、筆染川(ふでそめがわ)が流れ、和泉式部伝説も残されている大和の香りある土地柄です。大屋窯では茶陶から日々の器まで★印として様々な意匠をこらした陶器を製作いたしております。加えて平成十二年(2000年)には磁器の製作も始まりました。多様に変化する時代にあって皆々様の暮らしにさりげない豊かさを提供できる窯元でありたいと願っております。

大屋窯の磁器

萩焼と云えば陶器であり名高き茶陶としての地位を戴いておりますが、殆んど顧みられなくなってしまった磁器の存在がありました。藩の奨励により文化年間~天保十五年までの二十年間白磁が盛んに焼かれていました。その後も有田、京焼とも深い交流を保ちながら廃藩置県後、明治、大正、昭和と陶器・磁器共に厳しい浮き沈みのなか磁器は昭和二十年まで焼かれていました。時代の要求と共に陶器のみが賛美されることとなり今日に至っております。萩で焼かれてきた磁器は二百年の歴史の中で京都や江戸文化の影響を色濃く受けていますが、大屋窯と致しましては、萩焼本来の流れである韓国・李朝系磁器、またその本歌である中国・明時代の磁器、日本のわび茶の世界が好んだ味を大切にしています。2001年より五十五年振りの磁器の復活です。大屋窯の新しい顔となりました。暖かい磁器もあわせて御愛用ください。

bottom of page